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再チャレンジが可能な社会について
 「新たな日本が目指すべきは、努力した人が報われ、勝ち組と負け組が固定
せず、働き方、学び方、暮らし方が多様で複線化している社会、すなわちチャ
ンスにあふれ、誰にでも再チャレンジが可能な社会」
−安倍晋三首相が9月29日の所信表明で語った部分である。
 「働き方、学び方、暮らし方が多様で複線化している社会」と「すなわちチ
ャンスにあふれ、誰にでも再チャレンジが可能な社会」が日本語として意味が
つながっているかどうかは別として、再チャレンジできる社会の実現は歓迎す
べきである。

 しかし、10月下旬から各種報道をにぎわせた「履修漏れ」の数々、全国5400
校あまりの国公立高校の実に10%に当たる540校で発覚、さらには中学校でも
履修漏れがあったという。その多くが地方の受験・進学校ということで、まさ
に「(受験勉強中心に)努力した人が報われ、(受験勉強の)勝ち組が固定し
ようとする社会」がそこにはあったことを見事に露呈してしまった。

 ところが、国会の議論では、教育基本法改正に熱心で教育再生が政策の柱で
ある首相からは、教育に対する熱意も思いも定見も聞かれずしまい。論争の中
心は、専らバナナのたたき売りの如く、補習時間を70時間だ、50時間だと「学
び方が多様で複線化している社会、すなわち(履修逃れの)チャンスにあふれ、
(履修しない)誰にでも(子どもたちに罪はないにしても、ごまかして学校を
卒業できる)再チャレンジが可能な社会」になってしまった。また、子どもた
ちに罪がないとして、本来、その責を問われるべき履修漏れを指示した学校首
脳部や見逃した(黙認した?)教育委員会関連への責任追求はなく、これも再
チャレンジの一環なんだろう。

 安倍首相や政府与党の姿勢を見ていると、最大の関心事は教育基本法の改正
の総論に専ら傾き、「なぜ、学ぶのか」「何を学ぶのか」の議論や観点がすっ
ぽり抜けているように思える。というよりも「国を愛する心」は学ばせたいが、
世界史など受験に関係ない科目はどうでもいいものに映る。換骨奪胎、本筋を
まったく無視した議論の数々は国民の多くの期待を裏切るものであったと思う。
考えてみれば、タウンミーティングで教育基本法の改正に賛成の質問をさせる
ために出席者に根回しする内閣だから、そうした議論を期待することすら難し
いのかもしれない。

 でも、今回の履修漏れ高校の大半が進学校で、受験科目優先でのカリキュラ
ム編成によることが原因としてわかったのだから、教育基本法の改正以前に、
そうした受験偏重校をすべて「受験専門高等学校」と名称や目的変更をしてみ
ることも教育再生には適しているかもしれない。それも学び方が多様で複線化
している社会−再チャレンジ社会にふさわしいのではないだろうか。


             (2006/11/20 人材開発メールニュース第409号掲載)


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